前奏曲にはフーガがよく似合う

子供の歌で、ABCの歌というのがあります。キラキラ星のメロディーに合わせて、「A B C D …」と順に歌っていくあれです。あの歌詞のつけ方、というかアルファベットを区切る場所が日本語版と英語版では違っていて、日本語で「HIJKLMN」と歌うところを英語では「HIJKLMNOP」とPまで無理矢理(?)詰め込んでいます(おかげでその後の歌詞がスカスカになっていたりします)。なんでだろうと実は前から不思議に思っていたのですが、何のことはない、最初の「ABCDEFG」のGと韻を踏むためだったんですね*1。そんなふうに早口言葉のようにしてまで韻を踏もうとする、ことほどさように英語の詩(歌詞)では韻を踏む(rhyme)ということが重視されています*2。逆に日本語では押韻の代わりに字数(音節数)が重視されていると言えるでしょう(これは歌詞はもちろん、和歌や俳句などで顕著です)。さらに漢詩のように押韻と字数の両方の規則があるものもあります。

本来、詩歌というものはこのように韻律に関して守るべき規則、決まりごとがあって、それを守った上でいかに作者の思いや感動を伝え、オリジナリティを発揮するか、そこが腕の見せ所となるわけで、受け手もその技(芸)に感嘆するわけです。感じたことを単に自由に書いたというだけではその魅力は半減でしょう*3。そしてこれは音楽でも同じと考えます。古来から先人が編み出してきた様々な形式や作法(ソナタ形式、変奏曲、フーガ、カノン、…)があり、作曲家たちはこのような形式や作法を守りつつ独創性を発揮してきたわけです。

で、私が気になっているのが前奏曲というもの。本来はある(メインの)曲の前に導入的に演奏される曲*4ということなんですが、これといった形式的な決まりがないという自由さが特にロマン派以降の作曲家達からウケた(?)のか、これだけで独立して(あるいは前奏曲集という形で)作られることが多くなっています。しかし先ほども言ったように本来はその後にフーガなり舞踏組曲なりの確固たる形式のメイン曲があって、これによって(前奏曲の自由さと)バランスが取られるはずです。代表例がJ.S.Bachの平均律で、前奏曲で自由に精神を飛翔させた後で、フーガというガッチリとした構造で締める、これが絶妙なバランスになっているわけです*5前奏曲だけで終わるのは、そういった締めるべきものがない、いわば糸の切れた凧、あるいはおいしいところだけを食い逃げするようなものでしょう。またその自由さというか作曲上の敷居の低さから、理論や技術の裏付けのない、単なる感性やアイディア勝負の曲が溢れがちです*6。そういった意味で私は、それに見合うだけのフーガ(または後続曲)を書けない人間に、前奏曲を書いて欲しくないと思っています。

前奏曲集という形を誰が最初に始めたのか知りませんが、最初の有名な曲集はやはりChopinのものでしょう。その後にScriabinやDebussy, Rachmaninovその他無数の追随者を作ってしまったという意味でChopinの罪は重いと思っています(笑)*7

*1:この間子供向けのCDを聴いていてやっと気が付きました。ちなみにその後の「QRSTUV」「W&XYZ」も同様に脚韻しています。

*2:セサミストリートを見ていたら、'rhyme'ということをしきりに言っていたのを思い出します。英語圏ではきっと小さい頃から自然に刷り込まれているんですね。

*3:私は自由詩というものには懐疑的です。

*4:メインの曲の前に、楽器が正しく調律されているかどうか確認用に試奏するための曲、というのがそもそもの起源だとか。

*5:「幻想曲とフーガ」「トッカータとフーガ」なども同様ですね。

*6:エチュードも形式的には自由ですが、こちらは特定のテクニックを鍛えるという目的に適うことがある種の縛りになっています。

*7:Chopinを「天才的素人作曲家」を呼んだ人がいますが、私も共感するところ大です。