「作曲者の意図を尊重」と言うけれど

昨日のN響アワーでShostakovichのピアノ協奏曲第1番をやっていたので少しだけ見ましたが、注目していたのは終楽章の最後のピアノソロの部分。ここは一旦テンポを落とし、そこから元のテンポに加速していく人が多いので、Toradzeはどうするのかな、と思っていたのですが、案の定そうやってました。でも実は楽譜にそういうリテヌートの指示はないし、作曲者の2種の自演の録音でもそういうことはやっておらず、インテンポで突き進んでいます。いつからこういう慣習が始まったのか知りませんが、手持ちのCDでは私の感覚ではだいたい8割から9割がたのピアニストはこのようにリテヌートしています。(聴き比べでも書いたように、私はこれが好きではありません。最近ではHamelinのCDが、作曲者自演のようにインテンポで弾いていて、演奏の質も高く、好感を持っています。)

私は作曲者の指定(というか意図)が絶対だとは思わないし、むしろ作曲者の解釈が最良でないケースもあると思っているので、そういう指示に反すること自体はあまりとやかく言うつもりはない(既に言っている?)のですが、気になるのはそういうピアニストの多くが、インタビューとか公開レッスンなどでは「作曲家の指示や意図を尊重しなければいけません」みたいなことを言っていることです*1。他の例では、Rachmaninovのピアノ協奏曲の自作自演録音があります。あれを聴くと、作曲者自身はかなり速めのテンポを意図していたようですし、2番の冒頭など素っ気無いほどに速いのですが、現在あれほど速いテンポをとっている人はあまりいません(Kocisくらい?)。このように自演の録音によって作曲者の意図が明白な場合でも、演奏家は(恐らく彼らなりの理屈をつけて)それを敢えて「無視」することが多いように思います。

それならばむしろGouldのように、作曲家の指示なんか糞食らえ、あるいは、作曲者のこの指示は間違っている、みたいに言ってくれた方が潔い態度と言えます。人前では作曲者の意図が大切と言いながら、結局は自分の解釈(好み)を反映していることをもう少し自覚すべきでしょう。(ちなみに作曲者自身の録音が残されている曲ですらこの状態なのですから、もっと昔のBeethovenやChopin, Lisztなどの、先生から弟子へ伝えられていった伝統的解釈というものも、かなり怪しい気がします。あるいは近代の作曲家の直弟子が、「先生の解釈はこういうものであった」と言って録音を残していたりしますが、その解釈も実は彼の好みが多いに反映されているとみた方がよいでしょう。)

せめて演奏家は今後は、あまりきれいごと(?)を言わずに、「作曲家の意図を自分の趣味や好みに反しない範囲で尊重します」などと言ってくれればと思います。

*1:Toradzeがそういうことを言っているかどうかは知りません。